《武蔵野・牛肉と馬鈴薯》

『武蔵野』は、失恋に傷ついた独歩が、その心の傷を癒すべく、当時は、水車と雑木林の村であった渋谷村で見た自然を回想した随筆である。そこに書かれた自然は、限り無く美しく、静かで、いとおしい。武蔵野の秋から冬にかけての光景と音を、失恋の痛手から立ち直りつつあった独歩は、その研ぎ澄まされた感性で感得し、この最高の文学として結晶化したのであった。『牛肉と馬鈴薯』は、やや未熟な作品だが、若き独歩の理想主義を主人公の独白として語った貴重な短編である。『少年の悲哀』は、底辺の世界に生きる若い女性が、主人公の少年に弟の面影を見て涙する逸話であり、『空知川の岸辺』は、不幸な結婚をする前の独歩が、北海道での新しい生活を夢見て北海道を訪れた際、彼が出会った北海道の大自然の述懐である。－－私は、『空知川の岸辺』を読むと、ブルックナーの交響曲第９番を聴いて居る様な気持ちに成る。－－独歩が残したこれらの作品は、世界文学の宝である。それにも関はらず、独歩のこれらの作品が正当に評価されて居ない事は、極めて不幸な事である。若い人達が、独歩の作品を知る事を心から願ふ。